第
二一号(二〇〇四年) |
特集] I 現代文学における神の沈黙 |
講演 |
現代文学における神の沈黙 |
山形和美 |
1 |
シンポジウム |
芥川文学における<破られる沈黙><守られる沈黙> |
宮坂覺 |
14 |
『沈黙』『黄金の国』再読 -<神の沈黙をめぐって>- |
佐藤泰正 |
25 |
小川国夫文学における <神の沈黙> |
勝呂奏 |
34 |
[特集] II 『ブライズヘッドふたたび』を読む |
『ブライズヘッドふたたび』は何を読ませるか |
遠藤祐 |
43 |
『ブライズヘッド・リヴィジデッド』とウォーのカトリシズム |
高柳俊一 |
53 |
[論文] |
夏目漱石『坑夫』論-「無性格」と「人格をめぐって」- |
好川左苗 |
62 |
正宗白鳥『泥人形』論-<結婚>と<ニヒリシズム>の超克- |
佐藤ゆかり |
75 |
芥川龍之介『闇中問答』を読む |
安藤公美・遠藤祐・大國眞希・嶌田明子 |
86 |
太宰治『右大臣実朝』論-近習の回想する実朝像とキリスト教の関係について- |
洪明嬉 |
106 |
遠藤文学と棄教神父-「火山」までと『沈黙』以後- |
山根道公 |
118 |
遠藤周作作品における語り手-同伴者としての語り手、『沈黙』、『深い河』- |
小嶋洋輔 |
130 |
遠藤周作論-『私の愛した小説』での「無意識」のアプローチを中心に- |
金恩暎 |
142 |
ジョン・ラスキンの予言者的言語 |
田久保浩 |
154 |
Our Mutual Friend とヨハネによる福音書-ディケンズによる現在終末論解釈- |
島田桂子 |
164 |
魂の救済を模索する文学-『ルル・オン・ザ・ブリッジ』との対話- |
亀田政則 |
175 |
[書
評] |
石丸晶子氏著『有島武郎-作家作品研究』 |
内田満 |
185 |
関口安義著『芥川龍之介の素顔』 |
細川正義 |
188 |
山根知子著『宮沢賢治 妹トシの拓いた道-『銀河鉄道の夜』へむかって』 |
遠藤祐 |
192 |
遠藤祐著『太宰治の<物語>』 |
佐藤泰正 |
195 |
斎藤末弘著『作品集 椎名鱗三 II』 |
宮野光男 |
197 |
水崎野里子詩集『アジアの風』の世界-アジアの切り取り方- |
森田進 |
199 |
竹野一雄著『想像力の巨匠たち-文学とキリスト教-』 |
安藤聡 |
201 |
ノースロップ・フライ著(ロバート・D・デナム編)/高柳俊一訳『神話とメタファー』 |
田久保浩 |
204 |
第
二二号(二〇〇五年) |
[特集] 文学における〈悪〉 |
講演 |
文学における〈悪〉のイメジ |
遠藤祐 |
1 |
シンポ
ジウム |
ミルトンにおける<悪> |
箭川修 |
13 |
『蠅の王』における〈悪〉 |
安藤聡 |
22 |
テレーズにおける〈悪〉の認識-〈不在〉からく共鳴〉へ- |
川那部保明 |
30 |
[特集] II 島崎藤村『新生』を再読する |
島崎藤村『新生』論 -世界文学の構図のなかで- |
剣持武彦 |
37 |
作中作「懺悔」の発表に関する一考察-『新生』再読- |
下山嬢子 |
48 |
書くことの〈罪〉を生きる-藤村『新生』再読- |
高橋昌子 |
57 |
[論文] |
夏目漱石『夢十夜』「第七夜」論 -〈夢〉と〈神〉の関連を中心にして- |
井田望 |
64 |
ロマン派詩人としての内村鑑三 |
田中浩司 |
76 |
芥川龍之介『神神の微笑』論 -キリスト教と日本の風土との対峙の内実- |
足立直子 |
94 |
芥川龍之介とダンテ『神曲』-「歯車」における「樹木になつた魂」をめぐって- |
堀竜一 |
106 |
三島由紀夫にとってのキリスト教-少年期における聖書を題材にした作品群を手がかりに- |
鈴木ふさ子 |
119 |
ヨナと中期英語詩『忍耐』-中世の説教におけるヨナの物語- |
高柳俊一 |
131 |
後期イェイツ詩におけるケルト神話とキリスト教の精神 -「燃えあがる緑の木」のイメージを巡って- |
木原誠 |
142 |
In the Beginning: Christianity and Cultural Colonialism
in Chinua Achebe's "Dead Men's Path" |
William F. Purcell |
165 |
[書評] |
安徳軍一著『比較文学・比較文化の地平融合-〈想像力のコスモロジィ〉』 |
森本真一 |
166 |
大田正紀著『近代日本文芸試論Ⅱ-キリスト教倫理と恩寵』 |
奥野政元 |
168 |
関口安義著『一つの花 評伝 今西祐行』 |
谷悦子 |
170 |
影山恒男著『立原道造と山崎栄治-困難な時代の蜜房』 |
森田進 |
172 |
岩崎正也・小幡光正・阿部曜子著『グレアム・グリーン文学の原風景-その時空間を求めて』 |
小野功生 |
174 |
山形和美編『グレアム・グリーン文学事典』 |
田久保浩 |
176 |
下山嬢子著『日本の作家100人 人と文学 島崎藤村』 |
高橋昌子 |
178 |
川島秀一著『表現の身体-藤村・白鳥・漱石・賢治-』 |
宮坂覺 |
180 |
[紹介] |
遠藤周作文学館『遠藤周作『沈黙』草稿翻刻』(藤田尚子解説) |
奥野政元 |
182 |
柴崎 聰著『詩の喜び 詩の悲しみ』 |
影山恒男 |
183 |
森田 進編『クリスマス詩集-この聖き夜に-』 |
柴崎聰 |
184 |
第
二三号(二〇〇六年) |
特集] I 文学における〈虚無〉 |
講演 |
ドストエフスキイの文学における虚無の諸相 |
清水 孝純 |
1 |
シンポジウム |
ドストエフスキーとトルストイ |
阿部軍治 |
13 |
虚無としての腐臭 |
芦川進一 |
22 |
[特集] Ⅱ グレアム・グリーン『事件の核心』を巡って |
愛と共感のパロディー |
竹野一雄 |
31 |
『事件の核心』-スコウビーの罪意識- |
安藤聡 |
37 |
連動する憐憫とその背景-スコービーの場合- |
阿部曜子 |
43 |
[論文] |
押川方義について |
川合道雄 |
49 |
語りの空白を読む-清水紫琴「こわれ指輪」論- |
岡西愛濃 |
55 |
『門』における宗教性-<立ち竦>む宗助と〈天〉 |
上總朋子 |
66 |
「よだかの星」の世界-「悪より救い出したまえ」の祈り- |
関口安義 |
78 |
山村暮鳥の詩と信仰 |
柴崎聰 |
89 |
三浦綾子文学と子ども |
上出恵子 |
99 |
ジョン・フォックス『殉教者列伝』とその系譜学 |
小野功生 |
107 |
ショージ・エリオットの『サイラス・マーナー』論 -苦難と自己正当化をめぐってのヨブ記の引喩- |
村山晴穂 |
113 |
「R.W.マッカイ著『知性の進歩』批評」に見るジョージ・エリオットの聖書批評-信仰と懐疑のはざま- |
福永信哲 |
123 |
ショートハウスの『ジョン・イングルサント』にみるアングリカン信仰 |
野谷啓二 |
134 |
キャスリン・ノリスのキリスト教観 -暗闇からの神の探求- |
本田緋沙子 |
149 |
[書評] |
遠藤祐著『宮澤賢治の〈ファンタジー空間〉を歩く』 |
中野新治 |
161 |
山根道公著『遠藤周作-その人生と「沈黙」の真実』 |
川島秀一 |
163 |
向拝清著『カーライルの人生と思想』 |
田久保浩 |
165 |
野口肇著『フラナリー・オコナーの南部』 |
田中浩司 |
174 |
藤木和子著『ブライアン・フリール-家族の心』 |
安藤聡 |
169 |
第
二四号(二〇〇七年) |
特集] I 明治期におけるキリスト教作家の問題 |
講演 |
透谷とキリスト教 ―<神>と<認識>、その対峙相関を軸として |
佐藤泰正 |
1 |
シンポジウム |
明治期におけるキリスト教作家の問題 |
槙林滉二 |
13 |
藤村における明治二十年代のキリスト教 |
下山嬢子 |
21 |
[特集] Ⅱ 遠藤周作『侍』をめぐって |
『侍』瞥見 ―ある躊躇と疑念 |
川島秀一 |
28 |
『侍』をどう読むか ―日本におけるキリスト教の土着化の問題 |
笠井秋生 |
35 |
『侍』試論 ―ベラスコの視点をめぐって |
長濱拓磨 |
41 |
[論文] |
『落梅集』における明治期のキリスト教受容 ―罪意識を中心に |
出光公冶 |
47 |
北村透谷と内村鑑三 ―明治キリスト教文学における<父なる神> |
尾西康充 |
54 |
「よだかの星」再読 ―聖書的な視点から |
遠藤祐 |
61 |
園子の象徴するもの ―『仮面の告白』におけるキリスト教的要素 |
鈴木ふさ子 |
73 |
『侍』 ― 新たな二つのテーマ |
武田秀美 |
88 |
ディケンズとキリスト教 ―『主イエスの生涯』を中心に |
島田桂子 |
95 |
E・M・フォスターとキリスト教 ―『いと長き旅路』の場合 |
松山献 |
102 |
エルネスト・ルナンにおける司祭像 -「神」への道としての«abstraction» |
江島泰子 |
109 |
フラナリー・オコナーの「グリーンリーフ」について―グリーンリーフのお上さんの「祈りによる治療」をめぐって |
野口肇 |
121 |
『ダ・ヴィンチ・コード』の虚構性 |
岡田理香 |
127 |
[書評] |
山形和美著 『文学の衰退と再生への道』 |
遠藤祐 |
138 |
宮薗美佳著 「『漾虚集』論考 ―「小説家夏目漱石」― の確立」 |
細川正義 |
140 |
尾西康充著 『北村透谷研究 <内部生命> と近代日本キリスト教』 |
田久保浩 |
142 |
遠藤祐著 『宮沢賢治の物語たち』 |
関口安義 |
144 |
関口安義著 『よみがえる芥川龍之介』 |
宮坂覺 |
146 |
青木京子著 『太宰文学の女性像』 |
洪明嬉 |
148 |
安藤聡著 『ナルニア国物語 解読 ―C・S・ルイスが創造した世界』 |
竹野一雄 |
150 |
Shoko Miyano: Innocence in Graham Greene's Novels |
阿部曜子 |
152 |
アーサー・シモンズ著/山形和美訳 『象徴主義の文学運動』 |
川那部保明 |
154 |
ラルフ・C・ウッド著/竹野一雄訳 『トールキンによる福音書 ―中つ国における<神の国>のヴィジョン』 |
安藤聡 |
156 |
第
二五号(二〇〇八年) |
[特集] 文学と罪 |
講演 |
文学と罪 |
竹野一雄 |
1 |
シンポジウム:グレアム・グリーン『ブライトン・ロック』をめぐっ
て |
『ブライトン・ロック』―作品創造へ向かう比喩表現―腹の中で鳴り、腸のへんですすり泣く音楽 |
山形和美 |
15 |
『ブライトン・ロック』―ピンキーの堕地獄とローズの救済 |
安藤聡 |
25 |
<神>に対立する<悪魔>―『ブライトン・ロック』のピンキーの堕地獄 |
小幡光正 |
32 |
『ブライトン・ロック』とフランス・カトリック文学 |
片山はるひ |
44 |
[論文] |
八木重吉の罪意識―東方キリスト教の汎在神論にふれて |
山根道公 |
54 |
島尾敏雄「出発は遂に訪れず」論―その「出発」の意味をめぐり |
安達原達春 |
65 |
遠藤周作「最後の殉教者」にみる<転び>の問題―資料との関わりから |
本田有加子 |
75 |
遠藤周作『イエスの生涯』における引用典拠 |
菅原とよ子 |
90 |
ディケンズ作品における罪と救い―変わったものと変わらなかったもの |
永岡規伊子 |
101 |
チェーホフ『コサック』とウクライナ―<辺境>をめぐる地政学的解釈の試み |
原田義也 |
114 |
シャーウッド・アンダーソンとキリスト教 |
森本真一 |
130 |
T.S.エリオット『秘書』について―寛容と共感を求めて |
岩松博文 |
141 |
『ゴドーを待ちながら』における聖書引喩 |
田久保浩 |
155 |
[書評] |
芦川進一著 『「罪と罰」における復活―ドストエフスキイと聖書』 |
山形和美 |
164 |
谷悦子著 『阪田寛夫の世界』 |
関口安義 |
166 |
尾崎るみ著 『若松賎子 黎明期を駆け抜けた女性』 |
宮坂覺 |
168 |
清水護著 『英訳聖書の語学・文学・文化的研究』 |
竹野一雄 |
170 |
マーク・ナイト、トーマス・ウッドマン編 Biblical Religion and the Novel,
1700-2000 |
村山 晴穂 |
172 |
第
二六号(二〇〇九年) |
[特集] 文学と死 |
講演 |
文学表現と死 |
中野新治 |
1 |
シンポジウム:文学と死 |
「歯車」と「風立ちぬ」における死のヴィジョン |
影山恒男 |
14 |
有尚武郎 ― 文学と死 |
石丸晶子 |
21 |
芥川龍之介の<死>意識と芸術 |
細川正義 |
32 |
<文学と死>をめぐる問い ― 遠藤周作『深い河』瞥見 |
川島秀一 |
49 |
[論文] |
芹沢光治良 ― <神>の摂理について |
勝呂奏 |
59 |
中村草田男俳句に見られる宗教性 ― 信仰観・死生観を中心に |
中島賢介 |
69 |
フラナリー・オコナー「川」における「躓きの石」としてのグロテスク |
田中浩司 |
80 |
遠藤周作『女の一生 ― 一部・キクの場合』と劉寒吉『風雪』 ―
<浦上四番崩れ>に見る死生観の相違をめぐって |
藤田尚子 |
93 |
E.M.フォースターのキリスト教批判 |
松山献 |
104 |
若松賤子と英米児童文学 |
尾崎みる |
116 |
[書評] |
勝呂奏著『評伝 芹沢光治良 ― 同伴する作家』 |
宮坂覺 |
126 |
遠藤祐著 『イーハトヴへの招待』 |
安藤聡 |
131 |
安森敏隆著『百卒長』 |
柴崎聰 |
133 |
三上節子著『悲哀に根ざした愛の教育観』― 新渡戸稲造とハリエット・B・ストウの比較研究』 |
氏家理恵 |
135 |
加藤常昭著『文学としての説教』 |
村山晴穂 |
137 |
田中俊廣著『時の波打際』 |
矢口以文 |
139 |
第
二七号(二〇一〇年) |
〔特集〕文学とイデオロギー |
講演 |
文学とイデオロギー ―アルチュール・ランボーの〈イエス詩篇〉をめぐって |
川那部保明 |
1 |
シンポジウム:文学とイデオロギー |
文学とイデオロギー |
山形和美 |
14 |
カーライルとイデオロギー |
向井清 |
34 |
信仰と文学とイデオロギー ―ダニエル・ベリガンの場合 |
矢口洋生 |
46 |
遠藤文学とイデオロギー ―『沈黙』を中心に |
山根道公 |
56 |
[論文] |
村上春樹 ―グローバルからユニバーサルへ |
森本真一 |
68 |
世界文学としての村上春樹 ―ポスト非宗教の文学 |
松岡直美 |
78 |
『深い河』後の遠藤文学 ―『女』を中心に |
笛木美佳 |
89 |
大江健三郎『燃えあがる緑の木』三部作試論 |
伊藤久美子 |
101 |
『ナルニア国年代記』における「巡礼」のモチーフ |
根本泉 |
112 |
中世主義者としてのイーヴリン・ウォー |
野谷啓二 |
123 |
[書評] |
小野功生著『ミルトンと十七世紀イギリスの言説圏』 |
田久保浩 |
137 |
富田裕著『静かな細い響き 或る散策者の歩み』 |
高柳俊一 |
140 |
山形和美訳、T.R.ライト著『神学と文学』 |
竹野一雄 |
143 |
野口肇著『アメリカ南部の宗教風土 ―フラナリー・オコナーの生きた世界』 |
前田絢子 |
145 |
小幡光正著『G.グリーン文学の原風景 ―グリーンランドの童子像を訪ねて』
岩崎正也編著『日本におけるグレアム・グリーン書誌』 |
阿部曜子 |
147 |
柴崎聰著『文学の比喩 聖書の比喩』 |
森田進 |
149 |
第
二八号(二〇一一年) |
〔特集〕現代とキリスト教文学 |
講演 |
「セルバンテスと石原吉郎 ―ドン・キホーテからサンチョ・パンサへ」 |
柴崎聰 |
1 |
シンポジウム:現代とキリスト教文学 |
近代小説の内/外に見る〈現代文学・キリスト教〉のアポリア |
河野至恩 |
15 |
境界人としての遠藤周作 |
富岡幸一郎 |
24 |
「死」と「時代の精神」―『1Q84』と『水死』(『組曲虐殺』にも触れて) |
島村輝 |
32 |
[論文] |
有島武郎と内村鑑三―「リビングストン伝」第四版序言の根底にあるもの |
尾西康充 |
43 |
太宰治「雪の夜の話」を読む |
安藤公美・遠藤祐・大國真希・嶌田明子 |
56 |
正宗白鳥『狸の腹鼓』論―白鳥の戦後の文学観を考える |
佐藤 ゆかり |
77 |
遠藤周作『沈黙』における〈沈黙〉の意味―「神」と「人間」の関係性を視座として |
古浦 修子 |
90 |
ルポルタージュとフィクション―インドシナ戦争下のグレアム・グリーン |
阿部 曜子 |
102 |
ジョージ・マクドナルド“The Carasoyn”に見るキリスト教観―妖精物語のモチーフの変容に光を当てて |
山田 敦子 |
114 |
[書評] |
佐藤泰正『これが淑石だ』 |
川島秀一 |
126 |
関口安義『長崎太郎』 |
宮坂覺 |
130 |
山根道公『遠藤周作『深い川』を読む』 |
笛木美佳 |
132 |
大國真希『虹と水平線―太宰文学における透視図法と色彩』 |
服部康喜 |
134 |
山本和道『ジッドとサン=テグジュペリの文学』 |
加川順治 |
136 |
岡田弥生『ウィリアム・フォークナーのキリスト像』 |
森本真一 |
138 |
島田桂子『ディケンズ文学のと闇と光』 |
安藤聡 |
140 |
『新カトリック大辞典』 |
阿部仲麻呂 |
142 |
宮本久雄『旅人の脱在論 ―自・他相生の思想と物語りの展開』 |
阿部仲麻呂 |
144 |
山形和美著『グレアム・グリーン入門―特異な人間性と迫力に満ちた世界観』 |
岩崎正也 |
146 |
第
二九号(一〇一二年) |
〔特集〕キリスト教文学の可能性 |
講演 |
キリスト教文学の可能性―ひらかれた文学と宗教を求めて |
佐藤泰正 |
1 |
シンポジウム:キリスト教文学の可能性 ―価値体系の境界を越えて |
不断に越境するもの―ドストフスキー文学の生成 |
清水孝純 |
16 |
ジッド、サン=テグジュペリ、カミュ―アフリカ体験を中心に |
山本和道 |
23 |
韓国の現代小説とキリスト教の関連様相 |
芹川哲世 |
36 |
[論文] |
巌本善の女子教育論 |
鄭玹汀 |
54 |
芥川龍之介「河童」論 |
吉川望 |
67 |
石川淳とキリスト教に関する管見 |
神谷光信 |
81 |
『人間失格』と『濁った頭』に表れる罪意識の考察 |
李智賢 |
93 |
川端康成「生命の樹」論 |
長濱拓磨 |
106 |
三浦綾子『氷点』における陽子の罪 |
竹林一志 |
118 |
山本周五郎『青べか物語』の世界 |
島達夫 |
129 |
C.S.ルイスとクリスチャン・ポストモダニズム |
湯浅恭子 |
144 |
C.S.ルイス著『天路逆程』のヴァーチューに見るカント的道徳観 |
櫻井直美 |
156 |
アズベリーは病床で何を見たのか―フラナリー・オコナー『長引く御感』論攷 |
亀田政則 |
172 |
[書評] |
柴崎聰『石原吉郎 詩文学の核心』 |
森田進 |
184 |
ドナト・オドンネル著・山形和美訳『マリア・クロス―現代カトリック系作家の想像力作用のパターン』 |
安藤聡 |
186 |
C.S.ルイス著・佐栁文男訳『四つの愛』新訳 |
村上晴穂 |
188 |
第
三〇号(一〇一三年) |
〔第三十号記念特集〕 |
はるかなる昔に寄せて |
遠藤祐 |
1 |
「キリスト教と文学」研究会会報再録 研究会の発足にあたって |
小泉一郎 |
6 |
コンコードの印象 |
笹淵友一 |
8 |
〔特集〕現代におけるキリスト教文学の〈ミッション〉 |
『神曲』翻訳の謎―山川ダンテとのめぐりあい |
下館和巳 |
11 |
遠藤周作の文学的使命、インカルチュレーション―日本人にとってのイエス像を探る |
古橋昌尚 |
26 |
〈神を指し示す指〉としての三浦綾子文学 |
竹林一志 |
39 |
『きれいな人』考 |
須浪敏子 |
51 |
[論文] |
フラナリー・オコナーの作品にみる「恩寵」という名の暴力と「悪」の所在 |
田中浩司 |
63 |
グロテスクの深みへ―フラナリー・オコナー「啓示」とアメリカ南部の風土 |
中村文紀 |
80 |
罪のバイブルから『敗れざるもの』へ―フォークナーとキリスト教 |
森本真一 |
96 |
『オセロ』における女性像―チンツィオからシェイクスピアへ |
郡司郁 |
107 |
芹沢光治良『巴里に死す』論―作品に託したもの |
勝呂奏 |
117 |
一九二〇年代のイエス伝としての「西方の人」―中景に響く〈声〉 |
安藤公美 |
131 |
『青い小さな葡萄』論―創作の二つの意義 |
北田雄一 |
145 |
[書評] |
勝呂奏『評伝 小川国夫 生きられる〝文士〟』 |
宮坂覺 |
156 |
尾西康充『「或る女」とアメリカ体験―有島武郎の理想と叛逆』を読む |
石丸晶子 |
161 |
竹野一雄『C.S.ルイス歓びの扉―信仰と想像力の文学世界』 |
安藤聡 |
164 |
宮田光雄『《放蕩息子》の精神史―イエスのたとえを読む』 |
山村晴穂 |
167 |
足立万寿子『エリザベス・ギャスケルの小説研究―小説のテーマと手法を基に』 |
斎藤康代 |
170 |
阿出川祐子『ヘンリー・ジェイムズの作品における異文化対立と道徳』 |
田久保浩 |
172 |
柴崎聰詩集『涙半分』 |
田中俊廣 |
174 |
川原有加『『ホビット』を読む』 |
棚瀬江里哉 |
176 |